日本書紀の執筆者が分かった
ある研究にかんする本を読んで、知的興奮を押さえきれないことがあります。最近読んだ森博達(ひろみち)著「日本書紀の謎を解く」中公新書もそういう本でした。
日本書紀については、日本の正史と言われながら、実はその撰述者や用いられた史料など、その成立に関わる事情がよく分かっていなかったのですが、中国語の音韻学を専門とする著者の研究で、当時の唐から渡来した中国人2名が主として執筆に当たったことや、一部分は日本人が補筆に当たったことなど編纂時の状況が明らかになりました。もちろんまだ分からないこともありますが、日本書紀は雄略紀と皇極紀から分担して書き始められたことも明らかになり、当時の宮廷において雄略と皇極の時代が画期とされていたこと、また当初は雄略以降だけが編纂を予定さ れていて、神代から安康紀までは書く予定はなかったことが確認されたのも興味深いことです。
日本書紀は全文が漢文で書かれていますが、歌謡の部分は万葉仮名、つまり日本語の発音に漢字を当てはめて書いてあります。細部は省略しますが、万葉仮名の音韻等の分析によって、使われている文字はα群(巻14〜21、24〜27)とβ群(巻1〜13、22〜23、28〜29)の2群に分かれており、α群は当時の中国の北方音であり、日本語を中国音で正確に表記したこと、さらに文章は教養のある中国人による正統的な漢文であることなどが判明しました。一方β群は、漢字使用上の誤りが多く、文章も和風の漢文であることから、日本人学者の手になると考えられたわけです。
著者は日本書紀成立の経緯を巻末で次のようにとりまとめています。
『天武天皇は、壬申の乱で近江王朝を滅ぼした。絶大な権力を掌握し、専制的中央集権を作ろうとした。天武は律令と国史を車の両輪と考え、両者の編纂事業に着手した。まず天武十年(681)二月二十五日に律令編纂の詔勅を下した。(中略)以下は私が考える書紀の成立過程である。』
つまり、天武十年以降修史事業が進められ、原史料の整備が行われたあと、持統三年(689)六月十九日、「浄原令」の編纂が終わって、余裕のできた唐人の続守言と薩弘格が書紀を撰述することになった。二人は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。もちろん正格漢文も綴れた。
古代の最大の画期は雄略朝であり、その次が大化の改新であった。そこで続守言が巻一四「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘格が巻二四「皇極紀」からを担当した。しかし、続守言は巻二一「崇峻紀」の終了間際に倒れた。続守言に先立たれた薩弘格は、巻二七までの述作を修了していたが、文武四年(700)六月十七日の奉勅後間もなく卒去した。
そこで、日本人文章学者の山田史御方があとを引き継ぐこととなった。そのころ、書紀の編纂方針に大きな変革が起こり、神代から安康までも撰述する必要が生じ、これも御方が書いた。持統崩御後、紀朝臣清人が持統紀(巻三十)を述作した。こうして日本書紀三十巻が完成した。
以上の結論に至るまでの著者の綿密で精確な研究過程は実に見事で、真実が少しずつ明らかにされて行く経過は推理小説の謎解きのような息をのむ趣があります。そして、これによって日本書紀成立の経緯がはじめて明らかになりました。
日本書紀の編纂は国家の大事業で、皇室や各氏族の歴史上の位置づけが行われる、きわめて政治的なものですから、編集方針の決定や原史料の選定は有力な宮廷内の日本人が行ったのでしょう。しかし、撰述の当事者が明らかになり、かつ成立の過程が明らかにされたことは大きな前進であり、今後の研究にも資するところ大なるものがあると考えられます。2000年3月