出雲の原像を復元する---近畿の出雲と出雲連合---
日本書紀(紀)の第三巻「神武天皇即位前紀」の冒頭には天皇が45歳の時、兄と皇子たちに次のように語ったと書かれている。古事記(記)によれば語った場所は日向の高千穂の宮である。(以下現代語訳による。)
「潮路にくわしい塩土の老翁(おじ)はのべている。『東によい地(くに)がある。青い山が、四方をめぐっている。その地に、磐のように堅固な船にのり、高天の原から下ったものがいる』と。その土地は、広く統治を行い、天下にのぞむのにふさわしいであろう。天地(あめつち)の中心の地。高天原から下ったのは、饒速日(ニギハヤヒ)の命であろう。行って都とすべきではなかろうか。」
そして天皇は東上したのだが、この時点で天皇は「東」つまりヤマトにはすでに饒速日がいることを知っていたわけで、ヤマトの先住族は饒速日(物部氏の遠祖・後述)を長とする者たちであったことを紀は認めている。
さらに紀には次のような話が載せられている。
「ときに、長髄彦は使いを派して、天皇に言った。」
「むかし、磐のように堅固な船にのって、高天原から下ってきた神の子がおられました。名は櫛玉饒速日の命と申されます。わが妹、三炊屋媛(みかしぎやひめ)をめとり、御子が生まれました。御子の名は可美真手(うましまで)の命と申します。私は、饒速日の命につかえておりました。天つ神の子に、二種類あるのでしょうか。どうして、天つ神の子といって人の地(くに)を奪おうとなさるのですか。おそらくはまことの神ではないでしょう。」天皇が言った。
「天つ神の子も多い。汝のつかえている饒速日の命が、まことに、天つ神の子であれば、その証拠の品を、持っているはずである。それをみせよ。」
長髄彦は、饒速日の命のもつ、天の羽々矢一本と、靭とを、天皇に見せた。天皇はそれを見ていった。
「まことに、天つ神の子である。」
天皇は、自分の天の羽々矢一本と、靭とを、長髄彦に見せた。天つ神の子の証拠を見て、長髄彦は恐れを感じた。しかし、すでに、兵はととのえられている。止めることはできなくなっていた。長髄彦は改心しようとはしなかった。饒速日の命は、天の神が、めぐみを垂れるのは、天孫に対してだけあるということを知っていた。また長髄彦の性質が、頑迷で、教化することができないことを知っていた。饒速日の命は、長髄彦を殺し、長髄彦の軍をひきいて、帰順した。饒速日の命は天より下ったものであるうえ、さらに、長髄彦の討滅に功績があった。天皇は、饒速日の命をほめた。饒速日の命は物部氏の遠祖である。」
神武即位に至る紀の記述は、神武は艱難辛苦に耐え、天神の助けを得て先住者を屈服させ、初代大王として君臨したと主張しながら、よく読んでみると、神武は武力をもって先住族を圧倒したのではなく、敵方の内紛に乗じて支配を遂げたらしいこと、その過程では天神の助けを得て、呪術を駆使して勝利したこと、先住族は物部氏を長として頂いていたこと、先住族の首長・物部氏も神武も天つ神族、すくなくとも同種であったことなどが書かれており、きわめて微妙な書き方であるという感じが拭えない。
紀編纂時編纂にあたった当事者としては、初代大王が神聖な先達として、高天原から舞い降りたように書くこともできたであろうに、わざわざ先住者があったことや、先住者が物部氏であったことを明示しているのはなぜだろうか。そう書かねばならない事情があったに違いない。すでに否定し得ない伝承として広く認知されている経緯があったためかもしれない。いずれにしても、神武が大和に来たときには、先住者・出雲族がいたと紀は言うのである。
さらに、紀を読み進むと、大和の三輪山には出雲の神・大物主が祀られていたことされ、また大和を創ったのは大物主神と少彦名命であることが繰り返して出てきたりする。崇神天皇の御代には悪疫が流行して、大物主神の託宣により出雲系の大田田根子に祀らせて平安が訪れたこと、その後も出雲の神の祟りがあったこと、皇室がこれらを畏れ丁重に祀ったたこと、なども書かれている。通説は天つ神族が大和を征服し、出雲が國譲りをして、島根県の一隅に閉塞せしめられたかのように言うが、はたしてそうであったのか、出雲はわれわれがいま認識している以上に広域を統括し、強大であったのではないかと疑う余地が多分に存在する。以下検討を続けてみたい。
神武紀・神代上第八段一書第六には、大三輪の神について、大己貴神(大國主神とも大物主神ともいう)の「降魂奇魂」である神が「ヤマトの三諸山(三輪山)に住みたい」というので、ヤマトに宮を建てて住まわせた旨の記事がある。大三輪神社は神殿を持たず、拝殿を通して背後の三輪山をご神体として祀る、原初の姿をとどめる最古の神社である。神社によればご祭神は大物主大神・大己貴神・少彦名神で、大物主大神・大己貴神は同じ神である可能性があるが、いずれも出雲の神である。
三輪の地はその後も聖地として「倭」の中心にあり、大物主神は国家神として祀られていったようである。たとえば『日本書紀』の敏達天皇十年閏二月の条には、蝦夷の首長綾糟(あやかす)らが泊瀬(はつせ:初瀬川)の中流で三諸岳(三輪山)に向かって、水をすすって誓約し、「今より以後、子々孫々、清き明き心をもて、みかどにつかへ奉らむ、臣ら、もし盟(ちかい)に違はば、天地の諸神及び天皇霊、臣が種(つき)を絶えむ」といったとの説話を記している。蝦夷たちは、大和の中心とされる聖地で出雲の神に誓ったのであり、後の世にも出雲の神が大和の中心で祀り続けられていたわけである。
崇神記五年の条には、国内に悪疫が流行し、不安な情勢にあったため、神託を乞うと大物主の神が現れて、自分を敬い祀れば世は平静を取り戻すだろうというので、天皇は大物主の神の末裔・大田田根子を捜し出して祈らせると、世は治まったという記事がある。一見奇異に感じられる話であるが、天つ神族の治世になってからも、大物主神の権威は世に浸透していて侮りがたい状況にあったと理解することができる。倭國の正史である紀が、わざわざこれを取りあげていることは軽視できない。
さらに崇神記八年十二月の条には、次の歌が載せられている。此の神酒は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸みし神酒幾久 幾久
また神功皇后摂政紀一三年二月条には神功皇后の歌として、次の歌がある。
此の神酒(みき)は 吾が神酒ならず 神酒(くし)の司(かみ)
世に坐(いま)す いはたたす 少御神(みかみ)の豊寿(ほ)き
寿(ほ)き廻(もと)ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉(まつ)り来し神酒そ
あさず飲(を)せ ささ
少御神(少彦名命)は、大物主神と共に倭を創った神とされる。言いかえれば神功皇后は倭を創ったのは出雲の神であると言っているわけで、紀がそれを繰り返して採録しているのは、重要な意味を持つと言わねばなるまい。
大物主神と饒速日は同一人だという指摘がある(原田常次・古代日本正史、小椋一葉・消された覇王など。)そうだとすれば、大物主神=饒速日命=物部氏の遠祖=物部氏=出雲族という図式が描けるであろう。
不思議なのは、伝承に登場する出雲の神が多く大和の地に祀られていることである。たとえば先述の三輪山に祀られた大物主命をはじめとして、出雲族として、三輪氏とならんで有力な賀茂氏の神、アジスキタカヒコネを祀る神社は、葛城山(奈良県御所市)の高鴨神社で、同じ御所市にある鴨都波神社(式内社)の祭神は、記紀では大国主命の子で、国譲りをした出雲の神とされる事代主の命である。この地はカモと名のつくところが多く、古くは鴨一族が居住していたと伝えられ、同神社の祭神はこの一族の守り神と考えられる。出雲神である事代主が『出雲国風土記』に記載されている神社の、どこにも祀られておらず、葛城山麓、御所市にある「鴨都波神社」に祀られているのはなぜだろうか、大きな疑問である。
大和には出雲神を祀る主要な神社がほかにも存在する。原初の姿を残すと言われる飛鳥坐神社をはじめ、石上神宮、大和(おおやまと)神社は出雲神を祀っている。代表的な出雲の神が大和を中心として祀られていることについて、梅原猛氏はその著書「神々の流竄(るざん)」のなかで、次のように述べている。
「(前略)オオクニヌシノミコトの国造りの舞台は、本来、出雲のはずである。その出雲に、突然、大和の三輪山の神が登場するのである。オオモノヌシの本拠が三輪山ならば、オオモノヌシを祭る出雲族の本拠もまた大和ではないか。
出雲族として、三輪氏とならんで賀茂氏が有力である。そして賀茂氏の神、アジスキタカヒコネを祭る神社は、葛城山(奈良県御所市)の高鴨神社であった。もう一人のオオクニヌシの子とされるコトシロヌシの本拠もまた、高市郡(奈良県橿原市)の河俣神社なのである。このことは、代表的な出雲の神が大和を中心として祭られていたことを物語るものであろう。
神社の分布を見てみても、出雲系の神社は、大和を中心に分布したと考えられる。三輪系や賀茂系の神社の中心地が、出雲とは認められにくいのである。」
なお、饒速日の父スサノオを祀る神社は全国に分布していると言われる。小椋一葉氏はその著書「消された覇王」のなかで、こう述べている。
「われわれが全国の神社を調べてみるとき、何よりもびっくりするのは、スサノオを祀る神社のおびただしい数である。天皇はもとより、一般庶民が建てた村の鎮守に至るまで、全国に数限りない。
私はスサノオとアマテラスの神社をざっと数えて比較してみたことがあるが、神明社の多い北越地方と、神社の創建が明治以降に集中している北海道で、わずかにアマテラスが多い程度、他の地方では圧倒的にスサノオの方が優勢で、西日本では倍近くに達していた。」
一例をあげれば、全国でも知らない人のない京都の八坂神社の祭神はスサノオノミコトであり、「こんぴらさん」として有名な讃岐の金刀比羅神社の祭神もスサノオノミコトである。
「出雲」は記紀のなかで、神話のなかの國として扱われ、かつしばらく前までは考古学的にもさしたる遺跡のない地域であった。近年に至って荒神谷遺跡、賀茂岩倉遺跡などで既成観念を覆すような発見があり、また弥生後期の巨大な高地集落・妻木晩田遺跡や多数の人骨が発見された青谷上寺地遺跡などが相次いで日本海沿岸地域で姿を現して、山陰側にも有力な勢力の存在が確認され、広域的な「出雲」の見直しが行われつつある。そして以上のような諸資料から見ると、「出雲」はわれわれが今まで考えていた以上に地域的にも広大で強力な「くに」(政治連合)であったのではないかという思いにかられるのである。具体的に言えば、「出雲」は原初出雲族の故郷の地であったろうが、かれらは次第に近畿地方へ進出して、「ヤマト」の「イズモ」でもあったのではないか。出雲族の物部氏は北部九州においては遠賀川流域付近にも分布していたようであり、その同族である尾張氏は近畿地方以東にもその版図を拡げていた可能性がある。そこで「出雲」の埋葬方式である前方後方墳の分布について検討してみたい。
「出雲」の墳墓の形式が「方」であることは、よく知られていることである。銅鐸祭祀が終焉して、地域首長の権威が拡大したころ、広島県北部から日本海沿岸を越(新潟県)まで四隅突出墳の分布がみられる。四隅突出墳は特異な形の墳墓ではあるが、その基本形は「方」である。一方弥生時代には近畿地方では方形周溝墓が盛行した(丹波では方形台状墓)。前方後方墳は方形周溝墓から発展したとされる。そしてその前方後方墳は東海地方から東国へかけて古墳時代前期の早い時期に伝播する。その後次第に前方後円墳に取って代わられるが、東海地方以東では最初の地域首長墓は前方後方墳である。
白石太一郎氏は、次のように述べる。(国立歴史民族博物館資料「前方後円墳と前方後方墳」より)
「また最近では、濃尾平野以東の東日本各地においては、古墳時代前期前半に営まれた古墳は、そのほとんど大部分が前方後方墳であることが明らかにされてきた。少なくとも古墳時代前期前半の段階では、西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であったことが明確になってきたのである。また、弥生時代終末期には、前方後方墳の祖形である大型の前方後方形墳丘墓が濃尾平野で営まれていたことも明らかにされている。したがって、この前方後円墳と前方後方墳というテーマは、単に古墳の墳丘型式の分類の問題にとどまらず、東日本における政治的世界の形成、ひいては日本列島における国家形成の問題とも密接にかかわる大きな課題をも含むのである。」
前方後方墳は、大和にもある。大和(おおやまと)古墳群には前方後円墳に混じって、波多子塚古墳、下池山古墳、フサギ塚古墳等数基の前方後方墳がある。ヤマトに王権が誕生した後も、物部氏に代表される出雲族は健在で、古墳時代前期にはその被葬者が埋葬された古墳は出雲系の前方後方墳であったとは考えられないだろうか。
思い出されるのは、1995年に発掘された大和(おおやまと)古墳群の前方後方墳「下池山古墳」である。この古墳では、徹底した防水工事が印象的であった。石室の天井石の上には厚さ10センチの粘土を敷き詰め、更に砂質土をはさんでその上を厚さ10センチの粘土で亀甲状に覆うという念入りなつくりであった。粘土の上下面には麻布が敷いてあったという。また石室の下部には排水溝が設けられていた。よほど降水量の多い地域での造墓経験から生まれたものではないかと思われた。注目されたのは、石室に隣接して設けられた小石室内に大型内向花文鏡1面(直径37・6センチ)が副葬されていたことであった。三角縁神獣鏡が遺体の周辺に僻邪のために置かれるのとは違った扱いで、ヤマトで盛行した多くの前方後円墳の埋葬方式とは異なっていた。前方後方墳に埋葬された被葬者の特異な姿を見た思いがした記憶がある。
東海地方における大勢力は物部氏と同族の尾張氏であった。尾張氏は物部氏から分かれた部族であるから、東海地方はつまり出雲系の豪族が支配していた可能性を考えてよいと思われる。おそらく、この勢力が東方へ進出した痕跡が古墳時代前期前半の東国への前方後方墳の伝播となって残されているのではあるまいか。
先述の白石太一郎氏はさらにこう述べている。
3世紀前半、東海、北陸、関東など東日本各地では、前方後方形墳丘墓が盛んに営まれる。特に大規模なものは尾西市の西上免遺跡など濃尾平野にみられる。また東日本各地の地域性の顕著な弥生土器が土師器に転換するのは、基本的に東海西部の土器の影響によるものである。これらのことから、東日本では、濃尾平野の狗奴国(注参照)を中心に、東海、北陸、さらに関東におよぶ広大な地域に、狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合が形成されていた可能性が大きい。東日本各地では、この狗奴国と邪馬台国との交渉によってもたらされる鉄資源や先進文物が分配されていたものと思われる。」
(注)東海地方に狗奴国が存在したとは、証明されていない。したがって、「狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合」の存在も確定した説ではない。狗奴国が東海地方に存在したとする主張は、魏志倭人伝の邪馬台国がヤマトの地にあったことを前提として、倭人伝の方位を南から東へと解して、初めて成立する。しかしそういう前提のすべてが証明されたわけではなく、現段階では単なる仮説に過ぎない。東海、北陸、さらに関東におよぶ広大な地域に、ひとつの政治連合が形成されていた可能性については、氏の言われるような実態があったことはたしかであろう。ただしそれは、現段階においては、「出雲連合」ともいうべき性質のものであって、氏の説は「狗奴国」を「出雲系勢力」と言いかえれば妥当性があると言えるのではないだろうか。

 また東海地方に狗奴国が存在したとすれば、同国はヤマトの「邪馬台国」と対立していたとされるから、両者間に戦闘状態があったはずであるが、それを示す考古学的証左はなく、さらにヤマトに成立した王の宮殿が危機に備える防御的施設を持っていなかったことをどう考えるべきかという疑問が残る。むしろ考古学的資料として纒向遺跡に東海地方の土器が多く流入している事実をみれば、両者間に争いはなく、協調関係にあったと考えるほうが合理的なように思われる。
同氏はさらにこのようにも述べている。
「『古事記』や『日本書紀』によると、東日本の広大な地域が西日本に成立したヤマト政権に組み込まれていく過程は、四道将軍やヤマトタケルをはじめとするヤマトの将軍達の度重なる軍事遠征で、次第にヤマトの版図が拡大したことになっている。しかし、東日本における前方後方形墳丘墓や前方後方墳のあり方から考えるかぎり、濃尾平野やその東方の東日本には、すでに邪馬台国と並行する時代に、狗奴国を中心とする狗奴国連合ともいうべき政治的世界が形成されていた可能性がきわめて大きい。そして3世紀中葉過ぎに、この狗奴国連合と邪馬台国連合が合体することにより、新しくヤマト政権が成立した可能性が大きいと思われるのである。記・紀の記載を下敷きにした古代国家形成史は大きく書き改めなければならない。」
先にも述べたとおり、「狗奴国連合」は適当ではないが、「この狗奴国連合と邪馬台国連合が合体することにより、新しくヤマト政権が成立した可能性が大きいと思われるのである。」という考え方は、わが国の古代史に新しい視点を投げかけるものと評価されるべきと思う。
わが国の古代を記した文献には、有名な魏志倭人伝がある。同書によれば「倭」は二世紀に大きく乱れ、「暦年主なし」という状況に陥ったため、連合体を構成する諸国が一女子・卑弥呼を共立して王としたこと、248年頃女王卑弥呼が死し、男王が立ったものの、国情が安定せず、再び台与(トヨ)を立てたこと、「倭」は魏の威光を背景に体制を維持していたことなどが書かれている。卑弥呼が都した「邪馬台国」の位置が曖昧で、明確な比定ができないという欠陥はあるが、古代とくに三世紀を中心に書かれた史書としては、もっとも具体的に「倭」の状況が描かれている。しかし、日本の正史と目される日本書紀は、この時代を作為的に描き、ヤマトに王権が誕生した頃の正確な事情も経緯もよく分からないままである。

白石太一郎氏は「3世紀中葉過ぎに、この狗奴国連合と邪馬台国連合が合体することにより新しくヤマト政権が成立した可能性が大きいと思われるのである。」と書くが、私は当時遠賀川西部の北部九州にあった「西の倭」ともいうべき「女王国連合」と、ヤマトを中心に吉備、東海、北陸、さらに関東に広がる「東の倭」つまり「出雲連合」が何らかの協約を結んで誕生したのが「新しい倭」ではなかったかと推測している。

当時「西の倭」は、後ろ盾と頼んだ魏の衰退と狗奴国による圧迫に悩んでいたはずである。加えて北部九州における人口増にも対応する必要があった。優勢を誇っていた鉄器の供給も「西」が新たな供給源を開拓して、有利に立つという変化があった。当初有利であった大陸の門戸という地理的条件も次第に低下した。このような苦境を乗り越えるには、同種であり、広大な東国の地を版図とする「西」と結ぶのが必須であった。このように考えると、旧唐書・倭国・日本伝にいう「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。」は、そのような状況を彷彿とさせるのではないか。
「西の倭」は、倭人伝によると二世紀ごろから魏を宗主国として、朝貢を繰り返し、卑弥呼の死の前後には狗奴国の攻勢に圧迫され、必死に救援を求めている。しかし四世紀になると通交は途絶したらしく、その後約一世紀にわたって中国と倭の間の交渉はなくなっている。このことも北部九州にあった「西の倭」が東遷した結果、従来の関係を見直した可能性を思わせる。
人は既成観念や固定観念、先入観にわずらわされて、その枠組みの中で思考しがちである。そして眼前にある重要な事実までも見逃すことがままある。また肝要な史料を既成概念のままにうち捨てて顧みないこともある。過去の方法論にこだわらず、先入観なく自由に考え、新しい視点で光を当ててみると見えてくることがありはしないか。われわれは長い間「出雲」は島根県の地域に限定して存在した地域王権だったと考えこまされてきたが、新たな視点で記紀を読み込むと違った姿が見えてくると私は思う。
これまでわが国の史学界では民間伝承や神社伝承を史料として重んじない傾向が強かった。しかし、それらも先人の生きた証であると考えると、まったく顧みないのでは真実に迫り得ないのではないかという思いが強い。
このエッセイは既成概念や固定観念を越えて、自由に古代を考えたい、そういう思いをこめて書いたものである。読み直してみると筆者の未熟さと力不足を露呈していて気恥ずかしい限りだが、そういう気運を醸成する先駆けともなれば、幸いこれに越したことはない。

2007年2月