冷戦後の国際政治

 

 1989年のマルタ会談、1991年のソ連崩壊で冷戦が終了した 。その後の国際政治について、「軍縮に向けての取り組み」地域紛争の増加」「アジアに残る冷戦」「9.11(2001年)テロ事件以降の世界」という 四つの観点から分析する。

 

1、軍縮への取り組み

 1945年7月以来2000回を越す核実験がなされてきた。大気圏内の核実験は、63年の米英ソによる部分的核実験禁止条約によって禁止されたが、地下実験は禁止されなかった。地下も含むすべての核実験が禁止されたのは、1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)によってである。 冷戦後の軍縮への取り組みをまとめると次のようになる。

1991年 第一次戦略兵器削減条約
(STARTT)
 戦略核の削減に米ソ(ロ)が合意。これにより、米ロの核弾頭をはそれぞれ、7000発から2200発に削減されることとなった。
1993年 第二次戦略兵器削減条約
(STARTU)
1996年包括的核実験禁止条約
(CTBT)
 部分的核実験で唯一禁止されなかった地下実験を含むすべての核実験を禁止。
1997年 対人地雷全面禁止条約  ただし、米、中、露、インド、パキスタンは未調印
2002年   戦略兵器削減条約  戦略核のさらなる削減

 このほか、996年には、「核兵器の使用と威嚇は国際法上一般的には違法である」という国際司法裁判所の判決も出され、注目を浴びた(ただし、法的拘束力はない)。
 しかし、こうした軍縮の流れにさからうように1998年には、インドとパキスタンが核実験を行い核保有国の仲間入りを果たしている。

(コラム)世界の地雷
 対人地雷は火薬の量が約200グラム。人を「殺す」ことより、「怪我をさせること」を目的とした兵器である。そのほうが経済的負担を含め、敵を消耗させるからである。1個3ドル〜10ドルと安い。車やヘリコプターで大量に散布される。地雷が散布されたところを地雷原というが、どこが地雷原かわからなくなっているところも多い。
 現在、世界には約1億2000万個の地雷が敷設されている。アンゴラに1000万個〜2000万個、イラクに1000万個、カンボジアに400万個〜600万個、ボスニア・ヘルツェゴビナに300万個〜600万個、等々。これらを除去する方法は、基本的には地雷探知機による手作業しかない。金属探知機が反応しても、大半は釘などの古い金属片であ り、本物の地雷を探し当てるのに、平均130回の「ピー」という音を聞くという。作業中の事故も多い。現在、世界で約5000人が地雷除去作業に従事し、年間10万個が取り除かれている。しかし、この調子では全部除去するまでに、あと1000年以上かかる。地雷は 5キログラム以上の圧力があると爆発する。誰かに踏まれるまで、地中で静かに待っているのである。


 

 

2,地域紛争の増加
   ソ連の崩壊によって、米ソを軸とする対立の時代は終わり、世界に平和が訪れるという期待が高まった。ところが、その期待ははかなく消え、むしろ地域紛争は増加した。その原因は大きく二つある。

(1)大きなカッコが崩壊
 第一の原因は、ソ連が崩壊することによって、それまで抑圧されてきた内部の民族・宗教対立が表面化し始めたことである。いわば、それまで社会主義というイデオロギーでくくられていた大きな括弧がはずされ、代わって民族・宗教という小さな括弧のくくり直し、因数分解のやり直しが始まったのである。

ソ連の民族紛争  120余りの民族で構成されていたソ連は、社会主義体制の失敗から、1991年にバルト3国が独立したのをはじめ、同年12月には11の共和国で構成する独立国家共同体(CIS)が発足した(1992年には12カ国になる)。
 一方、チェチェンではイスラム教徒がロシアから独立を求める運動を活発化させ、ロシアとの間で激しい武力対立に発展している。カスピ海沿岸には豊富な石油があり、ロシアはパイプラインの輸送ルートとの絡みでチェチェンの独立を武力で抑え込んでいる。
ユーゴスラビアの内戦  一方、ソ連の影響力が低下したことから、この機に乗じてユーゴスラビアを解体し新たに独立をめざす動きも活発化した。ここにはスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人のほか、1971年から一つの「民族」として認められたモスレム人(=イスラム教徒)などの民族が住んでいる。もともと彼らは7世紀半ばごろユーゴスラビアに定住するようになった南スラブ族であり(ユーゴスラビアとは「南スラブ人の国」という意味)、民族学的には同じグループに属する。事実、彼らは外見上ほとんど違いがない。言語の面でもスラブ語としての共通性をもち、例えばセルビア語とクロアチア語は、関西弁と東京弁くらいの違いしかない。

 そんな彼らが激しく対立するのは「宗教」が違うからである。東部地方のセルビアはロシアと同じ東方正教、また西部地方のクロアチアとスロベニアはカトリック、さらに、14世紀から約400年間にわたっ てオスマントル コ帝国がユーゴの南半分を支配したことから、三つ目の宗教 としてイスラム教がこの地に入り込んだ。したがって、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の民族対立といっても、結局は「東方正教」「カトリック」「イスラム教」の宗教対立にほかならない。

 バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」ともいわれ、第一次世界大戦の発端となった地域でもある。各民族は大国との結びつきが強い。スロベニアとクロアチアは第一次世界大戦前、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったため、今もドイツとの結びつきが強い。
 また、スラブ系のセルビアはロシアとの関係が深い。
 
第二次大戦戦後、チトー大統領の巧みな政治手腕に加えて、社会主義体制が宗教そのものを否定していたこともあって問題は表面化しなかった。

 しかし、1980年にチトー大統領が死去し、さらに社会主義という大きなカッコが崩壊していく中で、宗教的対立が再び顕在化することとなった。1991年にはスロベニア、クロアチアが独立宣言をし、続いてマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言をした。これに対してセルビアとモンテネグロは新ユーゴ結成した(1992年)。

 スロベニア、クロアチアの内戦が1年以内に収まったのに対して、ボスニアの内戦は悲惨をきわめた。両者の決定的な違いは、民族(=宗教)構成にある。
  ・スロベニアの91%はスロベニア人(=カトリック教徒)
  ・クロアチアの75%がクロアチア人(=カトリック教徒)

 これに対して、ボスニア・ヘルツェゴビナでは、
  ・ムスリム人(=イスラム教徒)40%、
  ・セルビア人(=東方正教)32%、
  ・クロアチア人(=カトリック教徒)18%
 と拮抗している。しかも彼らは村単位で混住していたため、かりに3分割するにしても線引できない状態にあった。

 激しい内戦を経て、1995年にデイトン合意が結ばれ、ようやく停戦が成立した。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題が一段落したのも束の間、今度は新ユーゴのコソボ自治州で戦闘が始まった(1998年)。ことの発端は、1989年にセルビア共和国がコソボ自治州に与えられていた自治権を剥脱したことに始まる。もともとコソボ地区に住む約200万人の住民のうち9割はアルバニア系である。彼らは宗教的にはイスラム教であり、言語も外見もセルビア人とは異なる。
 ミロシェビッチ新ユーゴ大統領は、コソボは12世紀末にできた中世セルビア王国の中心であったとして、ユーゴのナショナリズムを煽り、コソボ地区のアルバニア系住民を弾圧した。これに対して、NATO軍は国連決議のないまま、ユーゴ空爆に踏み切った(1999年)。2カ月半に及ぶ空爆により内戦は一応収まったとはいえ、数世紀にわたる紛争の歴史を持つこの地域に民族自決の原則を当てはめること自体に無理があるのかもしれない。


 
(2)米ソの支援が途絶えたために、内戦が勃発
 
第二の原因は、米ソの支援が途絶え、いわば「つっかい棒」がはずされたために内戦が発生したことがあげられる。冷戦の間、米ソは互いに自分の勢力を拡大するために、発展途上国に経済的支援をしていた。ところが、ソ連が崩壊し冷戦が終了すると、アメリカにはもはやその必要性が無くなった。アメリカが手を引いた後に残されたのは、民族間の激しい内戦だったというわけである。

コンゴ内戦(1994年〜)  コンゴ民主共和国(旧ザイール)は、1960年にベルギーから独立した国である。ちなみに、隣国にコンゴ共和国という似たような名前の国があるが、こちらはもともとフランスの植民地であり、全く別の国である。両者は、13〜15世紀にコンゴ王国の領域であった。
 さて、そのコンゴ民主共和国に、1965年、クーデターによってモブツ政権が誕生した。コンゴはダイヤモンド、銅、コバルト、金、石油など、アフリカ最大の資源産出国である。モブツ政権は37年間にわたって、これらを私物化してきたどうしようもない政府であったが、反共政策を掲げてきたため、アメリカがこれを支援してきた。
 ところが、冷戦終結で、用済みとなったコンゴからアメリカが手を引いた。ソ連に貴重な資源をとられずにすむからである。「お金持ちの家はケンカが起きやすい」のたとえ通り、さっそく内戦が勃発した。これまでに200万人〜470万人の犠牲者が出ていると言われる。
アフガニスタン内戦  1979年、ソ連はアフガニスタンの親ソ政権を支援するため、アフガニニスタンに侵攻した。その後、最大12万人の兵士を投入したにもかかわらず、反政府ゲリラを抑えることが出来ず、結局、ソ連は1989年に撤退した。
 ソ連の撤退によって「つっかい棒」を外された結果、さっそく内戦が勃発した。1996年にはタリバン政権が樹立され、北部同盟との間で内戦が始まった。


 

 

 

3. アメリカ同時多発テロ事件以降の世界

(1)アフガン戦争(2001年)
 2001年9月11日、 ニューヨークで同時多発テロ事件が起き、約3000人の命が失われた。皆さんの中には、世界貿易センタービルに飛行機が衝突する瞬間を見ていた人も多いのではないか。

 アメリカ政府は、ただちに犯人はオサマ・ビン・ラディンを首領とするイスラム原理主義のテロ組織アルカイダだとして(ただし、正式な犯行声明はない)、彼らをかくまっているアフガニスタンに空爆を開始した(アフガン戦争)。 アメリカはタリバン政権と対立関係にある北部同盟を支援し、タリバン政権を2ヶ月で崩壊させた。そして、2002年にはカルザイ大統領が政権を握った。

(コラム)民主主義対テロの戦い?
 アメリカがなぜテロに狙われたのか。アメリカからすれば、「我々は何も悪いことをしていない」ことになる。しかし、テロリストから見れば、湾岸戦争以来アメリカはサウジアラビアに軍隊を駐留させ、酒を飲み、女性兵士が肌もあらわに「イスラム教を冒涜している」と映った。これはイスラム教とキリスト教の「文明の衝突」(ハンチントン)だという見方もある。
 そうした見方に対してアメリカは、今度の戦争は「民主主義」対「テロ」の戦いだと位置づけた。かつての「民主主義」対「ファシズム」を連想させる 。アメリカは常に自らを正義の立場に置く努力を忘れない。


(コラム)Show the flag
 
この時アメリカは ”with terrorists ,or with us”(どっちにつくのか)、”Show the flag”(旗幟鮮明にしろ)と、世界に迫った。Show the flag と脅されれば日本に選択の余地はない(?)。日本はただちに「テロ対策特別措置法」という法律を成立させ、日章旗をつけた自衛隊をアフガニスタンに送り込み、アメリカ軍の後方支援にあたった。日本が「戦時」に自衛隊を海外に派遣したのは、戦後これが初めてである。
 

 

(2)イラク戦争(2003年3月)
 
2002年、ブッシュ大統領はイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び非難した。イランと北朝鮮は核開発を行い、イラクは大量破壊兵器(核兵器、生物兵器、化学兵器、放射能平気の4種類を指す)を保有し、ともに 国際情勢を不安定にしているという理由からである。
 2003年3月、アメリカは脅威を芽の内に摘み取る先制攻撃も「自衛権の行使」にあたるという論理をひっさげて、ロシア、フランス、ドイツの反対を押し切り、国連の承認もないままイラクを攻撃した(イラク戦争)。しかし、この時 少なくともアメリカには、

 1.イラクが大量破壊兵器(生物化学兵器)を所有していること。
 2.それらがテロリストの手に渡っていること。

 という、二つの証明を世界に示す必要があったのではないだろうか。フセイン政権を3ヶ月で崩壊させた あと、イラク国内をしらみつぶしに捜索したが、結局大量破壊兵器は発見できなかった。これでは、アメリカの本当の狙いが、イラクの石油にあったと疑われても仕方がない。

 2005年4月、スンニー派のフセイン政権に代わって、シーア派およびクルド人を中心とするタラバニ大統領が就任した。しかし、サダム=フセインという独裁者からイラク国民を解放したアメリカは感謝されるどころか、反対に、いまだにイラク国民の激しいテロ攻撃にさらされている。

(コラム)スンニー派とシーア派
 スンニー派は全イスラム教との約9割を占める。教理を中心とした長老会議を重視する。一方、シーア派は、教祖の血統を重視する立場で、イランを中心にイスラム教徒10億人の約1割を占める。

 

(3)民主化十字軍となったアメリカ
 「民主主義国家は互いに戦争をしない」。クリントン大統領はかつてこう語り、戦争を防ぐためには独裁政権を倒し、民主主義を根付かせることが必要だと説いた。実際、同時多発テロ以降のアメリカは、アフガンやイラクで民主化十字軍よろしく、必死に民主主義の教師という役割を果たそうとしている。しかし、かつて日本やドイツ を戦争で破り、民主主義を根付かせたときとは違って、イラクやアフガンでは苦戦している。
 1823年のモンロー宣言以来、アメリカは孤立主義をとってきた。それが1947年のトルーマン=ドクトリンによって、一転して「反共」、「民主主義の教師」として積極的な役割を担うようになった。今回の民主主義対テロの戦いも、そうした延長上にある。しかし、民族、歴史、宗教といったものを一切無視して、民主主義を外から注入し、すべての国で民主主義がスンナリ受け入れられるとはとても思えない。民主化という名目ですべての行為が許されると考えるとしたら、それは思い違いと言うべきであろう。民主主義とは、基本的には一国の中で、国民の声として「育ってくるもの」ではなかろうか

 

 


4.アジアに残る冷戦(北朝鮮問題)
 朝鮮 戦争の停戦協定が結ばれたのは1953年である。しかし、これはあくまで「停戦」であり、決して問題が解決したわけではない。実際、北朝鮮の様々な行動を見ていると、北朝鮮はいまだに朝鮮戦争を戦っていると考えた方が分かりやすい。韓国には北朝鮮のスパイが5000人程度送り込まれているとも言われ、1978年には、韓国に軍隊を送り込むための秘密地下トンネルが発見されている。
 かつて、北朝鮮は「地上の楽園」と宣伝され、1970年代はじめまでは韓国より経済的に優位にあった。その夢に誘われ、日本から約10万人のコリアンが帰国した( そのうち、日本人妻は約1800人)。
 しかし、社会主義経済の破綻や、ソ連が崩壊し援助が途絶えたことなどから、経済は危機的状態に陥った。一人あたりGDPは573ドル(1998年)と、韓国の約20分の1にまで落ち込んでしまった。工場が止まり、電気が来なくなり、食糧不足で100万人以上の餓死者が出たとも言われる。「農民が飢え死にしているのに、どこが理想社会か」と、共産党の幹部の中からさえ 脱北者が出る始末である。

 1994年、金日成死去のあと政権を受け継いだ息子の金正日は、独裁体制維持のために、次のような政策を採っている。
 第一に、軍の強化である。2200万人の国民の内115万人が軍人であり、軍事費はGDPの25%に達するとも言われる。軍事費という無駄なものにお金を使いすぎれば、他にしわ寄せが来る。多数の餓死者が出るのも、うなずけるところである。
 第二に、「脅し」という外交カードを使った援助引き出し政策である。現在、北朝鮮は、6発程度の核を保有していると言われる(2005年)。アメリカがイラクに在外兵力25万人のうち20万人を投入している現状では、アメリカは北朝鮮に関わっているゆとりはない。「脅すなら今だ!」。そうした「読み」の中で北朝鮮は核開発を進める。北朝鮮の核開発を中止させるために、2003年に六カ国協議(日・中・韓・北朝鮮・米・露)が開催されたが、その後北朝鮮は、六カ国協議のテーブルにつこうともしない。
 そのほか、日本人拉致問題も北朝鮮にとっては重要な外交カードである。1960年代から70年代にかけて、多くの日本人が拉致された。目的は、日本人を工作員(スパイ)に仕立てること、またはスパイ育成のための教育係にすることである。現在、政府は15名の拉致被害者を公式に確認しているが、実数はもっと多いとも言われる。
 第三に、情報操作も体制維持の重要な戦略である。まず、外から入ってくる情報を遮断する。北朝鮮のテレビ・ラジオは韓国の放送を受信できないようにチューナーが改造されている。かりに外国のテレビ・ラジオを持ち込んでも、当局に届け出てチューナーの改造をしてもらわなければ使うことが出来ない。また、韓国のビデオやDVDを家庭で見ることも禁止されている。あらかじめ家の電源を切り、ビデオやDVDをデッキから取り出せなくしておいてから、突然警察が家の中に乱入してくる。
 そのほか、金正日の偉大さをたたえたり、韓国は貧しいと宣伝したり、日本が本当に攻めてくるなどと、メディアを通じて間違った情報を繰り返し放送し、国民を洗脳する。まるで、戦前の日本と同じである。
 しかし、近年の情報革命の中で、北朝鮮のこうした情報操作にも「ほころび」が見え始めている。なぜ、多くの脱北者が出るのか。答えは簡単である。彼らが何らかの方法で外部の情報を得ているからである。いくら政府が禁止しても、ビデオやDVDを通して大量の外部情報が流れ込んでくる。中国製の携帯電話で連絡を取り合うものもいる。ワイロを渡せば、外国のラジオのチューナーを改造されず、韓国のラジオを聞くことも出来る。
 ドイツでは、東ドイツが西側の情報の遮断に失敗したことが東西ドイツ統合(1990年)のきっかけになったといわれる。朝鮮半島でも、同じ事が起きる可能性はある。
 

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