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教育基本法改正
2007年09月02日
家からタクシーでワンメーターのところに国際会議場がある。昨日、そこで「教育再生民間タウンミーティング」という討論会が開催されるというので、娘と2人で見に行った。主催は日本青年会議所。登壇者には八木秀次高崎経済大学教授、西村眞悟衆議院議員、森田健作元衆議院議員、といった右寄りの名だたる論客が名を連ねている。 右翼の人たちの「総決起集会」(笑)をイメージして参加したが、議論は非常に冷静であり、参考になった点も少なくなかった。
(八木秀次氏 基調報告要旨)
最初に八木教授の基調報告があった。講演内容は以下の通り。 昭和52年の学習指導要領に初めて「ゆとり教育」という言葉が使われた。ゆとり教育が導入されたのは、当時の学校が荒れており、その原因が「詰め込み教育」にあるという誤った認識に基づいていた。ゆとり教育の結果学力は低下し、学校の荒れ方はかえってひどくなった。
一方、戦後教育は個性重視という名の下に、強制=悪と考え、わがままな人間を育ててきた。その結果、朝礼で15分か20分という短い時間ですら人の話をじっと聞くことができない人間ばかりになってしまった。集団行動がきちんとできるように、本来身につけておくべき「型」というものがある。摘むべき悪しき芽は早いうちに摘むべきである。教育とは無理強いであり、強制であり、強制抜きで教育は成り立たない。教育の99パーセントは過去からの継承である。
昨年(2006年)、59年ぶりに教育基本法が改正され、2007年にはゆとり教育の見直し(=授業時数の増加)が決まった。とくに教育基本法改正は次の二つの点で大きい意義がある。
第一に、教育の目標として教育基本法第2条に
道徳心、公共の精神、伝統と文化の尊重、我が国と郷土を愛することなどが盛り込まれた。旧教育基本法には「教育は、人格の完成をめざし」とあるが、具体的にどのようにするのか規定がなかった。新しい教育基本法によってようやく「人格の完成」の方向が具体化された。
第二に、第16条に、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり・・・」と規定された。これを旧法と比較すればその違いは明瞭である。すなわち旧法第10条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と規定されていた。これまで一部の人たちはこの「不当な支配」を、たとえば戦前の国家によるファシズム教育のようなものと理解し、この条文は日本が再び戦前のようになることに歯止めをかけることを目的として置かれたものであると解釈して、国家による「指導」を拒否してきた。
ところが改正教育基本法では、後段に「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」と付け加えられ、教育が法律に基づいてなされるべきものであることが明確に定められた。これにより、現場で論議を呼んだ国旗・国歌の指導問題なども、学習指導要領という法的拘束力を持つもので指導を義務づけられた以上、もはや論議の余地なく指導しなければならなくなった。
そのほかのパネリストの発表にもいくつかおもしろいものがあった。
・人間はほめられて伸びる(森田健作氏)
・人間の値打ちは掃除をしている姿を見れば分かる(門川大作京都市教育長)
・オオカミに育てられたらオオカミになるのが人間だ(西村慎悟氏)
・教科指導ばかりしていて、どういう人間を作ろうとしているのかを今の教育は教えていない(平岡龍人清風明育社理事長)
" One for All, All for One. "という標語は、戦前の日本では
前半ばかりが強調され、自己犠牲を促すのに使われた。一方、戦後は後半の「オール・フォー・ワン」の精神が強調されることが多かった。「個人」を優先する左、「全体」を優先する右。教育は右と左の適度なバランスの中で行われる必要があることを改めて痛感した
討論会であった。
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