考える葦

2007年07月02日


 「人間は考える葦である」とパスカルは言った。しかし、本当にそうか。今の高校教育を見ていると、とてもそうは思えない。むしろ「人間は暗記しようとする 葦である」というのが実態ではないか。

 授業では考えるゆとりを与える間もなく、膨大な知識を教え込む。生徒はそれを覚えるのに必至になって、考えるいとまもない。 まるで、知識の大海の中でおぼれるが如しである。入試制度がそうした教育を求めているのだから、 教育現場だけを責めても仕方がない。

 問題は、長年こうした教育を受けていると、やがて考えることが億劫になり、考えるという最も人間らしい行為自体を忌み嫌うようにな ることだ。その結果、授業中に生徒に質問しても、「分かりません」のオンパレードとなる。本当に分からないのか、それとも考えるのが面倒だからとりあえず「分かりません」と答えて おいて、あとはひたすら嵐が過ぎ去るのを待っているのか。

 そもそも生徒に知識を与えるのは、ものごとを自分の頭で考える素材を与えるためである。歴史を教えるのは、過去を振り返り人類の未来を考えるためであり、英語を教えるのは外国語で表現された情報を自分なりに解釈し考えるためであり、数学を教えるのは、ものごとを論理的に考える訓練をするためである。すべての知識は、最終的には自分の頭で考えるための素材に過ぎない。

 ところが今の学校教育では、知識の伝達は「暗記」の段階で止まってしまい、考えるという段階にまで到っていない。確かに学習の初期の段階では「理解」と「暗記」は 重要である。しかし、たとえ「初期の段階」であろうと、また「乏しい知識で」あろうと、それを元に考えるという訓練をすることが必要である。そうしないと、ものごとを暗記することが学習活動のすべてと誤解してしまう 恐れがある。テストの形式が暗記レベルで満点を取れる場合はなおさらそうした誤解を助長する。

 無から有は生じない。自分で考えるためには知識という素材が必要である。 しかし、覚えることは学習活動の必要条件ではあっても十分条件ではない。生徒も教師もいつの間にかこの本質を忘れてはいないだろうか。 たとえ忘れていなくても、実践していなければ忘れているのと同じである。
 

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