|
人生を変えた一言 2008年1月30日
「二重契約はアカン!」
という言葉だった。
31歳の時、私は大学を辞め、高校の教員になろうと思って大阪に出てきた。出身地の石川県は採用試験の年齢制限が30歳だったので受験資格がなかったからだ。
その翌日だった。今度は府立高校(泉鳥取高校)のY校長先生から電話がかかってきた。「英語の教員を捜している。常勤講師で是非来て欲しい」とのことである。一方は荒れた中学校の3ヶ月雇用、こちらは高校の3月末までの期限付き講師である。条件はこちらの方がはるかにいい。
電話の向こうのY校長先生に 翌日、またY校長先生から電話があった。「羽曳野市教育委員会には、私の方から話をつけたから、安心して私の高校に来てください」とのことである。そして、「羽曳野市教育委員会に出むいて、迷惑をかけたことに対する挨拶をしてきなさい」という指示をいただいた。 こうした水面下でのやりとりがあって、私の高校教員の第一歩が 、泉鳥取高校の「期限付き英語講師」としてスタートした。幸い、その年の採用試験(教科は社会)に無事合格し、翌年度からはそのままY校長先生の下で社会科教員として勤務することになった。講師から教諭になった場合、たいていは他の学校に回されるのが普通であるが、私の場合は同一校での採用となった。英語の先生 が、次の年から急に社会の先生になったものだから、生徒のほうもビックリした様子だった。 Y校長先生は、その後三国丘高校の校長に転勤され、私を同校に呼んでくださった。私を呼んでくださった理由の一つには、たとえ、やせ我慢をしてでも自分の主義主張を曲げないという生き方の「美学」が関係していたのかもしれない。
高校教員になったら一度でいいから進学校で授業をしてみたい。教員なら誰しも思う「夢」がこうして実現した。しかも、三国丘で18年もお世話になり、その間にたくさんの素晴らしい生徒達と巡り会うことができた。 |