ほめることと叱ること

2007年01月18日

 

ほめる
 今までほめられた中で印象に残っているものが二つある。一つは小学生の時。柿の木の絵を描いたところ父親が「わー、おいしそう。すごくうまく描けている」ってほめてくれた。それ以来、絵を描くことが好きになった。
 もう一つは高校1年生のとき。所属する放送部でいい仕事をして、先生から「あの原稿、南が書いたのか」と 、たった一言ほめられた。その言葉はその後の自分を支える自信となった。

 効果的にほめることは決して易しくはない。ほめ言葉を安売りしてはいけないし、時には厳しさも必要である。しかし、本人が一生懸命やってそれがうまくいったときは、タイミングを外さないでほめてやりたい。どんな些細なことでも「認められた」という自信はその後の人生の大きな財産になる。

 

叱る
 一方、叱ることはほめること以上に難しい。しかり方を間違えると、一生その人の心に傷を残すことになる。しかり方のポイントを教科書的に言えば、

@頭ごなしに叱らない。必ず相手の言い分を聞いて、理由を説明して叱る。

A叱るという行為は、相撲で言えばガチンコ(真剣勝負)である。テレビのスイッチを切り、向かい合って、目線の高さを同じにして、相手の目を見ながら叱る。

B他人と比較して叱らない。特に兄妹の比較は厳禁である。

C父親と母親で役割分担をする。一般的には父親が叱り役で母親がフォロー役に回るとよい。両親が一緒に叱ると、家庭内における子どもの居場所がなくなり、「親」対「子ども」の対立となってしまう。

D叱りたいことを我慢して我慢して、ある日一気に爆発させるというのは最悪である。その都度注意をして、「3回やったら、容赦しないからね」と事前に警告を発し、徐々に叱り方をきつくしていく。


山田恵諦天台宗座主の叱り方
 ただし、子育てというのは教科書通りにやってうまくいくとは限らない。山田恵諦天台宗座主は次のように主張する。

 「子どもを育てるときには、決して叱ってはいけない。褒めてもいけない。これが教育の基本である。特に叱ることだけはしてはいけない。叱っても、絶対といっていいほど反省はしない。曲がったところ、悪いところを直そうと思ったら、自覚するようにし向けなければダメである。そのためには直接的に言ったらうまくいかない。本人が自覚するように、間接的にもっていくことである。

 また、このごろの教育法では、盛んにその子のいいところをほめて、素質を伸ばしてやれと言う。確かに長所を見つけることは人を扱う基本である。しかし、ほめたからといって伸びるものでもない。下手にほめれば、のぼせるだけである。

 叱ってもいかん、ほめてもいかん。じゃあ、どうするのか。答は、この二つを合わせて使うのである。どうしても叱らないかん時まで、ほめる材料を取っておいて使うのである。すぐに出したらダメで、温存せなあかん。

 「あんた、いついつの時には、どこそこでこうしよったやないか。私は、賢い子だなあ、いい子だなあと思って感心しとった。それなのに、こんなことしたら、ちょっとおかしくないやろうかなあ」。

 こういう言い方は、叱るんではなしに、教えているのである。子どもには子どもなりの理由があって、正しいと思って、あるいはそう悪いことではないと思ってしていることがたくさんある。だからこそ、本人に考えさせ、悟らさなければ直っていかない。

 これは叱らないかん、これはほめないかんということを、一つ、二つと胸にしまっておく。そして、ここぞというときにさりげなく出す。黙っていても親の目が光っている。よほどのことがなければ口を出さない、ということが大切である。」

   (山田恵諦天台宗座主 『上品の人間』 大和出版より要約)

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