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最近読んだ「エスペラント図書」のリスト


読書記録 (181)
Kiun libron mi legis lastatempe? 

Sub la signo de la verda stelo (Red.: L. Friis, F. Faulhaber, Holger Hansen)

『緑の旗の印のもとに』(編集者:F.フリースら) 


(21.3 x 15.1 x 0.7 cm: pp 71: Dansk Esperanto-Forlag 社;Åbyhøj、デンマーク? 1964年)
( 1977年に購入。どこで、いくらで? )

Unuvorte
*エスペラント運動が活気に満ちていた頃の、エスペランティストならうれしくなってしまう話ばかり22編を集めたもの。『トナカイ』のサロヴァーラさんの寄稿も採用されている。


読書メモ
『トナカイ』の旧版と同じくこれもフランス綴じだ。サローヴァーラさんの文が読みたくて、本棚から探し出した。本書の3番目に "Epizodo el la Kvara Mondo" という題で、7頁余の、集められた作品の中では長編の部類に入るもの。人前で話すのが苦手な少女として自分を紹介している。

「やさしいエスペラントの読み物」に出てくる、あの「娘と私と帽子と(La junulino, la ĉapero kaj mi) 」のロスバッハさんによる寄稿を読めたのは私にはうれしい収穫だった。

*冒頭に「出版人は打ち明ける(Eldonisto konfesas)」という題でこの本の編集者の一人、フリースさんが、友人のエスペランティストに「人工語、エスペラントなどといった馬鹿なことはやめろ」と忠告しようとエスペラントについて調べるうち、そのとりこになってしまった話がでてくる。これはコルカーさんが "Vojaĝo en E-lando" で "Kiel mi fariĝis esperantisto(どのようにして私はエスペランティストになってしまったか)" と改題し採用したお話だ。

*世界エスペラント協会(UEA) のデレギート(*)・ネットを使って旅行して。他の旅行社とは断然違ったすばらしい経験が出来たとする話もいくつか。今は、パスポルタ・セルボ(**)に取って代わられたのだろう。
 (*)デレギート(delegito) :UEA の会員のうち、居住地や専門分野の問い合わせに答えるボランティアとして登録した人。
 (**)パスポルタ・セルボ(Pasporta Servo) :国際民宿サーヴィス《いずれも「エスペラント日本語辞典」による》

*第一次大戦後の捕虜収容所でエスペラントをハンガリー人に教える話が出てくる。著者は "Sur sanga tero" などのバギーさんかと思ったら違っていた。何人ものエスペランティストが機会を見つけてこんな事をしていたのだろう。その中で著者が言うように、第二次大戦と違ってその前の大戦は牧歌的(idilia) な雰囲気がまだあったのだ。

*「エスペラントをやっていて良かった」という話が集められているが、実は、エスペラントをやっていたおかげで強制収容所へ入れられたエスペランティストが大勢いるわけで、以下のようなフレーズに出あって、ギョッとした。

  Pro esperanto mi falis en la danĝeron, sed sen esperanto ni neniam estus trovintaj la vojon al la hejmlando. … el "Ĉirkaŭ la kongreso, kiu ne okazis"
  (エスペラントのせいで私はひどい目にあったのだが、しかし、エスペラントが無ければ故国に帰ることはきっと出来なかったのだ)

*エスペラントに関する話題を一切マスコミが扱わなくなってしまった現在、あるいは、一般的にエスペラント熱がすっかり冷めてしまっている現在、当時の欧米のエスペランティストたちの情熱に満ちた文章の数々を読んでみるのも一興か? 彼らは、まさか、21世紀にエスペラントがこんなに不人気になっているとは夢にも考えなかったのではないか?

*緑星章をつけていた、それが役に立ったという話がいくつか含まれている。日本国内でも、もちろん、国外でも旅行する機会があれば、緑星章をつけようと改めて思った。



* tralegis: 7. 12. 2009.
  



目次に相当する Kiu verkas kion?(誰が何を書いた?)を簡単な内容と共に再録した。

# La eldonisto enkondukas (Friis)(出版人による前書き)
  エルシノーロのエスペラント講習会でベテラン達のエスペラント人生を録音したのを聞いてもらうといつも、大きな拍手が起きた。それらを本で出すのも面白いと思った。しかし、それらだけでは少ないので、私と Faulhaber と Hansenn の3人で手分けしてさらに多くの人に書いてもらい選別し、手も入れた。この本はエスペラントの勉強にも役立つと思う。

# La eldonisto konfesas (Friis)(出版人は打ち明ける)
  上述の、ミイラ取りがミイラになる話である。コルカーさんがカットした部分はほんの少し。

# Antaŭjuĝo (Enström)(先入観)…「エスペラント100の効用」の(56)に全文の直訳を載せた。
  私がラジオを聴いているとエスペラント嫌いの二人が部屋に入ってきた。「何を聴いているの?」「ローマよ」「イタリア語って何て美しい言葉でしょうね」「母音が多くて柔らかいわ」。しばらくして、「どこか他の局に変えて頂戴。さっぱり分からないもの」「でも、私は全部分かるのよ。エスペラントだから」「ローマと言わなかった?」「ラジオ・ローマからのエスペラント放送よ」二人はさっさと部屋を出て行った。

# Epizodo el La kvara mondo (Salovaara)(第四の世界での出来事)
  私はしばしば自分を四つの世界に住んでいるリッチな人間だと考えている…で始まる。第一の世界は家庭。第二は仕事。第三は本の世界。そして、もちろん、第四の世界はエスペラントゥーヨ。デンマーク人、ドイツ人、英国人、そして、フィンランドからたった一人サロヴァーラさんが参加したフランスの旅。フィンランドを代表して一言と言われ、頭の中が真っ白になったときの経験を語る。

# Portu ĉiam vian insignon! (Hansen)(いつも緑星章を!)
  1946年のこと。オランダへ講演で招待された帰り、飛行場の通関で止められた。座席が予約されていないと言う。彼はオランダ語、ドイツ語で話すが私には分からない。私がデンマーク語やエスペラントで話しても彼には分からない。飛行機は出てしまい途方に暮れた私が飛行場の外へ出ると、私の緑星章を見て話しかけてきた人がいる...

# Aprobinda mensogo (Rannisto)(承認しうる嘘)
  私(フィンランド人)がエスペランティストになったのはとても奇妙なきっかけからである。私はハンガリー人とドイツ語で文通していた。彼はエスペランティストで、時々、分けのわからない言葉でグリーティング・カードを送ってきたが、私はそれをハンガリー語だと思っていた...

# Retrovita (Murphy)(見つかった)
  1944年秋。私は暗号係としてイタリアに従軍していた。作戦で山越えの移動中、ある農家の一家に大変世話になった。戦後、デレギート・レートを利用してその家族を見つけることが出来た。

# Jes, ni E-istoj estas unu granda familio (Major)(そう、私たちエスペランティストは一大家族なのだ)
  私の悪い癖は、しなければならないことを最後の最後までしないでいることだ。1936年の8月。私は家の事情でハンガリーへ旅行しなければならなくなった。ビザやら切符などの手配が済んで、はっと気がついたのはホテルを全く予約していなかったことだ。そこで、ブダペストのデレギートに手紙を書いて助けてもらうことにした...

# Nur Esperanto helpis (Müller)(エスペラントだけが役に立った)
  タシュケントから私の住むハノーヴァーにエスペラントの書留郵便が届いた。若いロシア人からで、戦前(第二次大戦)ハノーヴァーに住んでいたおじさんを探しているという。市役所で調べてみると、それらしい人が今は「鉄のカーテン(fere kurteno) 」の向こうの町に住んでいるらしいことが分かる。そのことを伝え、その町の近くに住むエスペランティストに探してもらうように勧めたところ...

# Stranga adiaŭo (Lappi)(奇妙な別れ)
  私の家に Setälä さんと、著名なチェ・メトードによる指導者でポーランド美人の H. Weinstein さんが泊まったことがある。彼女は体調を崩し回復するまで10日ほど滞在した。駅で別れるときに、動き始めた列車から彼女が「さようなら、地獄で会いましょう」と叫んだ...

# Fratoj de la Verda Stelo (Ginz)(緑の星の兄弟たち)
  私は20歳になるかならないかという年齢で、すでに2年間も従軍していて、その時は、ロシア軍の捕虜となり武装を解かれシベリアへと送られる途中で、イルビットという町にいた。捕虜はハンガリー人、ドイツ人、トルコ人、ポーランド人、などからなり、それぞれ異なった言語で話していた。私は、持っていた小冊子、「エスペラントの鍵」のハンガリー語版でエスペラントを広めることを思い立った。それは他人に無関心だったハンガリー人同士に、同じ苦しみや悩みを抱える人間同士という感覚を生み出した。捕虜の警備にあたるロシア人たちにも広めようと、持っていた1915年版のUEAの年鑑に載っていたペトロ−グラードのエスペラント・クラブ、「エスペーロ」に手紙を出し状況を説明した。私のことを「緑の星の兄弟よ」と呼びかけた手紙が届いた...
 それらの思い出は私の人生で最も美しいものだ、 Rememoro pri ili apartenas al la plej belaj en mia vivo. と言う文章で締めくくられる。集中一の感動させられるお話。

# Mantuko savas situacion (Gorso)(ハンカチで窮地を脱した)
  スカンジナヴィアからのカラバーノが、ガルダ湖のほとりにある中世の面影を残した小さな漁師町に到着したのはきれいに晴れた暑い夏の日だった。私(イタリア人)はヘルパントだった...で始まるビキニの水着にまつわる大騒動!

# Ne parolu laŭte pri viaj kunvojaĝantoj (Andrén)(旅の連れとは大声で話さない)
  1936年のウィーンでの世界大会での出来事。同じ年、ベルリンでオリンピックが開かれていた。私達4人がコンパートメントの四隅に席をとったとき、オリンピック帰りの若い二人のスウェーデン女性が乗り込んできた。私達が話している言葉がスウェーデン語でないと分かると、私たちのことを太っているとか禿げているとか言い出した...

# Malfermiĝis novaj horizntoj (Ginz)(新しい地平が開いた)
  チェコスロヴァキアは1918年までハプスブルグ帝国の一部で、世界にほとんど知られていなかった。エスペラントを利用して我が国のことを知らしめようとの活動があった。1922年のヘルシンキでの世界大会に合わせ、フィンランドの雑誌にチェコスロヴァキア特集を組ませ、1932年には Literatura Mondo 社によるチェコスロヴァキア特集号が出された。当時の大統領で哲学者のマサリク (Masaryk) は、エスペラントの助けを得てできた出版物の有用性について手紙を寄せている。

# La "malvarmaj" angloj (Ginz)(「冷たい」英国人)
  旅は三等列車に限ると決めていた私。1949年のボーンマスでの世界大会を終えロンドンへ向かう汽車の中で、無口で人付き合いの悪いとされる英国人から声がかかった。「サルートン、サミデアーノ!」...
 エスペラントがまた一つ奇跡をもたらした! 
 Esperanto faris unu el siaj mirakloj! 

# El Kanado (Faulhaber)(カナダから)
  私の家内のラトヴィア人の教師が最近カナダのカルガリーへ移り住んだ。わたしの手持ちの本「775ヶ国語による福音」に、カルガリー地方のインディアン(クリー(Cree)族)の言葉による訳が載っていたので、それをコピーして機会があったら何が書いてあるか調べて欲しいと頼んでみた。彼女からそれが福音であることと、さらに「天にまします我らが父よ」のクリー語訳も送られてきた。エスペランティストにはどんな国にもエスペラントで到達できる! Por Esperantisto neniu lando estas lingve neatingeblaj!

# Utilo de Esperanto (Faulhaber)(エスペラントの有用さ)
  私の文通相手の一人はアルメニアに住んでいる、1910年にエスペランティストになったベテランだ。彼と二人でアルメニアの歴史の一頁を明らかにしたことがある。アルメニア教会が1714年から1856年までアムステルダムに存在したのである...

# Ĉirkaŭ la kongreso, kiu ne okazis (Setälä)(開かれなかった世界大会)
  1914年。最終目的のパリを目指し、私はエスペラントの講演旅行で英国からオランダ、ベルギーを回っていた。突如、第一次世界大戦が勃発した。何とかパリにたどりついたが、物価がどんどん上がる中、奨学金の大枚50フラン札は小銭に変えることができない。ホテルは一週間分前もって予約してあった。帰国の方法を探している人の中に、幸運なことに同国の数学者、 Kalle Väisälä 教授がいた...

# La 27-an de julio 1963 (Thorsen)(1963年7月27日)
  1963年7月。ベオグラードで開かれる国際教育者会議のエスペラント講習に参加するべくトールセン夫妻と息子のラッセは車で南ユーゴスラヴィアのスコーピエに来ていた。約束していたエスペランティストのビルテが不在だったので、有名なホテル・マケドニアを避け、近くのこじんまりしたホテル、ビルテお奨めのホテルに泊まった。翌朝5時15分、大地震が襲った... あのホテル・マケドニアは崩壊し百人以上の犠牲者が出た、とあとで知った...

# Kvar jarojn en Gronlando (Kustosz)(グリーンランドでの4年間)
  グリーンランドには「グリーンランド独特の事情により...」と言う表現がある。私の彼の地でのエスペラントを広めようとの経験談を読んでいただければ、読者の皆さんも、その意味を分かっていただけると思う...
 私はもう一度グリーンランドに戻り、蓄えたエネルギーとリフレッシュした情熱を持って「緑の旗の印のもとで」の仕事を続けたい。
 … mi esperas reveni al Gronlando kun novaj fortoj kaj freŝa entuziasmo por daŭrigi mian laboron sub la signo de la verda standardo. ここで、この本のタイトルとなったフレーズが出てくる。

# Terura embaraso (Assarsson)(恐ろしい窮地)
  エスペランティストたちばかりによるギリシャ旅行に参加したときのこと。帰りのユーゴスラヴィア国境駅で警官によって私ともう一人のスウェーデン人のパスポートが没収されてしまった。帰りのビザがないと言う。ストックホルムでダブルのビザを申請したのに、クロアチア語が分からないので片道のビザであることが分からなかったのだ...

# Esperanto kaj mi (Rosbach)(エスペラントと私)
  七つのエピソードが副題をつけて集められている。
 La sensencaĵo venkis min …1938年3月。高校生だったときのこと。友達が「エスペラントの鍵」を示し、「この言葉に興味があるだろう」と言ったので「絶対そんな馬鹿げた言葉は勉強しないよ」と言い返した。古ノールウェー語の時間にこっそりその緑の小冊子を読み始め、またたく間にそのとりこになってしまった...
 Tutmonda korespondado …まだエスペラントに確信がもてなかった頃、広範囲に文通を始めた。全大陸に相手がいて、黒人もいれば黄色人種もいた。切手代はどうしたかって? 文通相手が送ってきためずらしい切手を友達たちが買ってくれたんだ。
 Eksterlanden …ノルウェーの若者にとって海外旅行は大冒険だ。戦争が終わって、早速、スウェーデンのエスペラント大会に参加した。大ベテランと知らず、Malmgren、Engholm、Setälä、Szilágyi、さんらと知り合いになった...
 Delegita servo …兄と自転車での帰途、ルンドの有名なカテドラルを見ようと初めてUEAのデレギートレートを利用した。そして、貴重な友人達を沢山得て、そのレートの有用性を確信した。
 Epizodo en Köln …ボロニアでの世界大会の途中、私はケルンのエスペラント・クラブで講演することになっていたが、時間に遅れそうだった。知っているつもりケルンの町は今や廃墟からすっかり復興していて、停車場で電車を待っていた人に道を聞く羽目になった。その人もそのホテルへ行くと言う。ノルウェーからエスペランティストが来て講演するのだと言う...
 La kardinalo kaj mi …ボロニアの大会では枢機卿による招待があった。私は(うかつにも)夏の白いシャツで出かけて行った...
 Mia ŝtelita mono …盗まれたお金の話をしないで終わるわけには行かない。それはFriis さんのエルシノーロでの講習会にエスペラントを教えに来ていたときのことだ。部屋のフックに上着をかけて昼食に出かけている間に財布を盗まれてしまった...感謝の言葉を韻文(詩)で、最後に。

# Perdo kaj gajno (Cockx)(無くしたものと得たものと)
  緑星章をつけていて助かった話と、得をした話のニ題。ラップランドを目指して旅行していた時、川を渡ろうとしてズボンを脱いだ時に切符を入れていた財布をなくしてしまった。切符を買おうと駅へ行くと...、そして、友人たちとロシアへ旅行したときのこと。エスペラントを話すのが一人でもロシアにいたらビールをおごるとからかわれる。赤の広場で記念写真を撮ろうとしたモンゴルの民族衣装を着た男の胸に緑星章が光っていた!




 (2009. 7. 20. 最初の書き込み。)

 

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